私は昭和53年4月14日に双子の弟次男として生まれました。兄が生まれるまでは双子とわからず、兄が生まれた後にもう一人いると知らされたようです。
未熟児として生まれたので丈夫に育って欲しいという願いもあり、名付け親から「丈夫」という名前をつけていただきました。
双子の兄の他、姉も二人いて、両親からも大きな愛を受けて名前の通りほとんど病気をせずにすくすくと元気に成長しました。
保育園時代は虫博士と言われるぐらい虫が大好きで、毎日裸足で泥んこになって遊んでいました。気になったものにはとことん調べたりするのはこの頃から身についたものかと思います。
体を動かすことが好きで、小学校からは水泳、野球に励んでいました。
野球を始めた時はキャッチャーのプロテクターに憧れて小さな体だったのですが、キャッチャーを志望した記憶があります。
小学校2年生から6年生までキャプテンも3回経験し、市でも優秀賞に選ばれました。
この小学校時代に父が脱サラしました。子供としては何不自由なくお金に苦労していませんでしたが、物をねだってはいけないとほとんど欲しがることはしなかった記憶があります。
ただ食べ盛りの年齢でもあり、家で餃子などの大皿が出ると兄弟4人で一瞬でその皿を平らげていました。イワシをウナギだと言われそれを信じて食したり、もやしと卵の炒め物を好んで良く食べ、今考えると本当に母は苦労して育ててくれたんだなと思います。
父は毎日仕事で遅くなり、日曜日も寝る勉強だとなかなか遊んでくれなかったりしましたが、疲れている中、時間がない中、野球を教えてくれたり、野球の試合を見に来てくれたりと父として接してくれました。父は家庭を守るために本当に頑張ってくれていたんだと私が父になった今は良くわかります。
そんな両親から「お前は優しい子だから人を助ける仕事をした方が良い」と言われていました。私もその気になって将来医療の仕事につくことを意識し始めました。
中学校でも野球を続けました。そこでは上下関係が特に厳しく、低学年時は先輩の言うことは絶対ということでグランドの端からいろんなことを叫んだり、いつ終わるかわからないグランドの周回走をしていたのを今でも覚えています。
この時期になると周囲から兄と比較されました。兄は模試で全国1位を取るなど特に勉強ができたので、運動だけは絶対に負けないと常に思っていました。
ただ両親は特に比較しないで接してくれたのが通常の生活を送る上で良かったんだと思います。
高校時代は肩を壊していたので野球はもう続けず、気楽に行う部活ということでワンダーフォーゲル部に入りました。ただそこでは毎年50kmを歩く、雪山登山など想像していたものより過酷な部活でした。その部活では歩くという単純作業を黙々と行う忍耐と、その後に得られる素晴らしい景色を見ること、走破した時の達成感を味わうことができました。
大学時代は入学式前に高校時代の知らない先輩から電話があり、先輩として色々教えてくれるということでホイホイ話に乗り、気がついたらアメリカンフットボール部に入部していました。この部は当時歯科の全国大会で優勝以外ありえないという強豪校でした。私が所属していた6年間で歯科の全国大会では6年全て優勝、関東医科歯科リーグでも5回の優勝を収めました。
そこでは血と汗と涙を流しながら負けることは許されない極限の状態を経験することで大抵のことは耐えられるという忍耐力の強化、チームメンバーと一緒に成し遂げる喜びを学びました。
大学卒業後は一般開業医に就職し、一から勉強させていただきました。日々歯科の技術、知識を吸収するだけではなく、医療人としてのフィロソフィーを学ばせていただきました。お世話になった山田先生には本当に感謝しています。開業後の今でも山田先生のフィロソフィーの影響を受けています。
その山田先生の勧めでアメリカカルフォルニア大学ロサンゼルス校に留学し、Dr. Beumer、Dr.Moyのインプラント外科、補綴のコースを1年間受講しました。
アメリカにするということはもちろん英語が必要だったのですが、あまり英語を勉強しないで留学したので大変苦労しました。
銀行に行ってもなかなかカードを作ってもらえなかったり、英語ができないのに電話で話せなど差別的なことも受けました。
それ以外にもさまざまな社会勉強(新車と言われて事故車を買ったり、交通事故にあったり、襲われたりなどなど)を経験することで、自分が当たり前だと思っていたものが、文化や人によっても全く異なると本当に勉強になりました。また誰かにやってもらうのではなく、自分から行動を起こさないと何も生まれないこともその時に学びました。
もちろん楽しいこともたくさんありました。プールサイドでバーベキューしながら様々な人と知り合い、飲んで騒いで、海や山、ラスベガスに行ったり、日本では体験できないようなボランティア活動に参加したり、また通常では知り合えない方々と知り合いになる勉強会やきっかけができたりと色々な経験、人脈ができたのは人生において大きな宝になったと思います。
もちろん歯科医として留学にきていたので、日中は大学でその臨床コースで日々臨床の勉強していました。この臨床コースでは技術だけでなく、知識の習得のために多くの論文を読みました。朝6時半から行う論文抄読会で准教授(現教授)の小川隆広先生と毎回顔を合わせるようになりました。臨床でも小川先生の治療のアシストを時々行うようになり、1年ほど経過した後、研究もやって見ないかとお声がけをいただきました。
当時臨床の勉強に来ていたので研究には興味はなかったのですが、手伝いを始めてから「なぜその現象が起こっているのか?」という臨床の疑問を解決できると知り、UCLAワイントロープセンターで客員研究員として勤務することになりました。
そこでは毎日研究所で仕事し、空き時間で臨床に触れるという生活を送っていました。最初は全く結果が出ず、一時帰国する度にこのまま続けて良いのかどうかで悩みました。
そして1年が経過し、一時帰国直前の結果が出なければ戻った時に辞めることを告げようと思っていた時、小川先生が一緒に実験をしてくださり、そこで初めてしっかりとした結果が出ました。もうその夜は嬉しくて嬉しくてチームメンバーと飲み明かしたのを記憶しています。
その実験の結果は「インプラントは製造後時間とともに劣化して、歯科医がインプラントを患者さんに埋め込む際には本来の能力の1/3程度しかない、そしてある波長の光をインプラントに当てることによりその能力を本来以上にする」というインパクトのあるものでした。
その後は多くの成果が出て、様々なアメリカやヨーロッパの学会で発表を行い、多くの論文を出し、賞もいただきました。
現在は研究したものが商品化され、日本でもヨーロッパでも使用されるようになりました。当院ではその商品化された光機能化機器を導入しています。
アメリカでの3年半の留学時代は単に勉強するだけでなく、アメリカで生活することでアメリカの合理性、日本人の素晴らしさ、生きるということについて深く考えさせられました。
留学から戻って来てからまた山田歯科で分院長としてお世話になり、臨床の技術、知識を蓄え、研鑽を積み開業に至りました。
開業にあたって3つのことを心に誓いました。
滅菌、治療方法、カウンセリングなど医院の収入にならなくても患者さんにとってより良い治療を行っていくこと。
スタッフにとって安心、安全で自己成長できる職場にしたい、歯科医院に関わる業者さんにとっても良いパートナーとなりたい、また地域に対して良くなることを発信していくこと。
医学は日進月歩なので常に研修研鑽を怠らず常に安心できるより良い治療を模索し、良い治療だけを行っていくこと、またより良い機器を導入していくこと。
この3つの誓いを胸に日々診療を行っています。
1番の願いは関わる全ての方に幸せになってもらうこと。そのためのお手伝いができれば嬉しいです。そのために自分ができることを常に模索し進化していきます。こんなたけお歯科をどうぞ応援してください。力の限り頑張っていく所存です。どうぞよろしくお願いします!